戦争が終わって75年

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1945年8月15日に太平洋戦争が終わりました。

飛行機が飛んできて町に爆弾を落とし、何の罪も無い人たちが亡くなりました。

日本の死者数約310万人と言われています。

太平洋戦争のきっかけは、アメリカ海軍が多数駐留するハワイの真珠湾攻撃でした。

この奇襲攻撃により、太平洋戦争の火蓋が切って落とされたのです。

日本側は1941年12月1日の御前会議で、山本五十六が「最初の1,2年は暴れてみせますが、それ以降は保証しません」と発言するなど、奇襲しなければアメリカに勝てないと考えていました。

そして真珠湾に向けて艦隊が出発しますが、ここで“宣戦布告するかしないか”が問題となっています。

戦争は事前に宣戦布告するのが常識であり、行われなければ騙し打ちとなります。

そのため会議で攻撃の30分前に宣戦布告することがきまりました。

しかし、駐米大使が手続きにもたつくという痛恨のミスを犯してしまい、結果攻撃の40分後に宣戦布告してしまいます。

これによりアメリカ国民は大激怒し、日本に復讐を誓い太平洋戦争が始まったのです。

このことは日本の軍部と官僚の連携が上手くいっていなかったことが要因にあり、日本史上最悪の戦争突入を加速させる原因の一つとなってしまいました。

硫黄島、沖縄では地上戦が繰り広げられました。

1945年の2月から3月にかけて、東京都・小笠原諸島の硫黄島で行われた日米の戦闘です。

この戦いは最終的に硫黄島は占拠されたものの、日本兵よりもアメリカ兵の方が死傷者の多い戦闘となりました。

1944年にグアム島を制圧したアメリカは、日本本土を攻撃するために飛行場がある硫黄島を狙っていました。

理由は幾つかありますが一番大きな理由は、本土空襲のために中間休憩地点として利用するためだったといいます。

日本軍は約2万3千人で米軍を迎え撃っています。

硫黄島の戦いは指揮官の栗林司令官が兵士への“萬歳突撃”と“自決”を許さず、徹底したゲリラ戦闘を指揮した戦いでした。

そのためにアメリカは予定よりも長く戦闘を強いられています。

しかし、人員と物量に勝るアメリカ軍に押され、奮闘の末に2月23日に摺鉢山に星条旗が掲げられました。

しかし、その後も日本軍は抵抗を続け、星条旗を日章旗に変えたりと抵抗を続けています。

そして、3月25日に栗林大将は最後の反攻を開始。

最後も栗林大将が絶対許さなかった萬歳突撃ではなく夜襲し、アメリカ軍に多くの損害を及ぼしました。

そして栗林大将の自決による死によって、硫黄島の戦いは終結したことになっています。

しかし生き残った日本兵は、終戦や終戦後も潜伏し戦い続けていました。

沖縄戦は1945年の3月から6月までおよそ3か月間、日本軍と米英の連合国との間で行われた戦闘です。

日本側は民間人を含めて約11万人、対して連合国側は約54万人でした。

沖縄戦は軍事司令部が消滅した6月23日で終結したことになっていますが、生き残った日本兵は敗戦まで抵抗を続けました。

アメリカは日本を完全に占拠する足がかりとして、沖縄に白羽の矢を立てました。

日本側は沖縄戦が絶対的な勝利を見せて少しでも有利に講和したいという思惑があったといわれています。

沖縄戦では日本軍の犠牲者は約9万人、対して連合国側の被害は約2万人でした。

そして沖縄民間人の犠牲者が約9万人と、兵士と同じくらいの犠牲が出た悲惨な戦いとなったのです。

住民の中には集団自決したり、防空壕に逃げ込んだ人たちを連合国軍が火炎放射器や毒ガスで殺害されています。

戦争という狂気により多くの人が犠牲になった、それが沖縄戦です。

日本軍は中学校(今の高校生)や師範学校(教師を育てるための学校)、高等女学校で学んでいる若者も戦場へ駆り立てました。

その数は2000人以上にもなります。

まだ20歳にもならない若者たちが「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」などとして日本軍の陣地づくりや弾薬運び、負傷した兵士の看護などをさせられます。

村や離島の青年学校で学んできた若者も軍に組み込まれました。

アメリカ軍を混乱させるゲリラ戦を展開する「護郷隊」という名の部隊も若者が入れられました。

このように沖縄の住民はことごとく戦争へと巻き込まれていったのです。

そして、忘れてはならない人々がいます。

戦争準備が進む沖縄に、朝鮮半島から大勢の人々が日本軍によって連れてこられたのです。

正確な人数は分かっていませんが、約1万人と言われています。

男性は日本軍の基地づくりに参加させられました。

女性は日本兵の相手をさせられ、体を痛めつけられ、深い心の傷を負いました。

そして、戦争に巻き込まれ、多くの人が亡くなったのです。

アメリカ軍は3月26日朝から沖縄本島の西にある慶良間の島々に次々と上陸しました。

アメリカ軍が上陸した座間味島、慶留間島、渡嘉敷島では住民が混乱状態に陥った末に、手りゅう弾を使って自ら命を絶ち、さらに、かまやカミソリ、棒などを使って殺し合ってしまいます。

沖縄戦最大の悲劇であり「集団自決(強制集団死)」と言われています。

島々に陣地を構えた日本軍と住民の関係が背景にあります。

島の中で日本軍は強い力を発揮し、村役場も人々も軍の支配下にありました。

住民は自由に物事を考え、行動することができず、その中で、日本軍は米軍に捕まることを禁じていました。

米軍に捕まれば無残な目に遭うという恐怖心が住民の心に植え付けられました。

自ら命を絶つこと以外の方法を奪われていたのです。

日本軍による「自決命令」があったという話もあります。

米軍に捕まるのは恥であり、「立派な日本人として死にたい」という思い込みも「集団自決」につながったのかもしれません。

3月23日に沖縄本島に爆弾攻撃を始めたアメリカ軍は4月1日朝、嘉手納町から読谷村にかけての海岸に上陸します。

アメリカ軍は約11万発もの砲弾を撃ち込みました。海はたくさんのアメリカ軍の艦船で真っ黒に埋め尽くされていたといいます。

沖縄戦に参加したアメリカ兵は約54万人で、そのうち18万3000人が上陸。

それに対し日本兵は11万人で、そのうち2万数千人は沖縄で集めた「防衛隊」や学徒隊でした。

日本軍とアメリカ軍の力の差ははっきりしていました。

上陸したアメリカ軍は数日のうちに沖縄本島を南北に分断し、南に下っていったアメリカ軍との戦いで、日本軍は多くの戦死者を出しながら徐々に撤退していきます。

日本軍は総攻撃を試みましたが、失敗に終わってしまいます。

5月中旬から下旬までの戦いで、日本軍は司令部がある首里まで追いつめられました。

首里の目前まで撤退した日本軍の敗北は誰の目にも明らかでした。

それでも戦争をやめることはありませんでした。

日本軍の責任者は少しでも長くアメリカ軍を沖縄に足止めさせて、「本土決戦」を遅らせるという時間稼ぎの「戦略持久戦」を続けることにしたのです。

そのことが日本兵の戦死者を増やし、住民の犠牲を大きくしたのです。

沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」も戦争に参加していました。

1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊で,沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊。

一般的にはひめゆり部隊と呼ばれる。

白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊が他にも存在した。

およそ90日間にわたって組織・運営され,短期間ではあったものの死傷者は数多く出てしまった。

名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく,沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。

元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み,昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど,両校の通称として「姫百合」の名が定着していた。

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日に両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は,沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。

沖縄陸軍病院は沖縄守備軍の直轄で,本部・内科・外科・伝染病科に分かれていて,学徒隊は全員が分散配置された。昼夜関係なく働かされていた。

拠点を移した6月には医薬品や食糧も底をついていた。 6月18日突如軍より解散命令が下される。

この後,壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ,兵士や学徒の多くが死亡し生還者はわずかであった。

生き残った者でも荒崎海岸に追い込まれ自決したものもいた。

「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち「解散」後の死者が128人であることが示す通り,軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといえるだろう。

「看護活動」という名目ではあったが,そこはまぎれもない戦場で「陸軍病院」とは名ばかりであった。

実際は非常に過酷なもので負傷兵の看護・排泄物の処理・水くみ・食事の運搬・伝令・死体の埋葬がなされていた。

壕の中には血と膿と排泄物の悪臭が充満し負傷兵のうめき声,怒声が響くばかりの場所だった。

 

私は毎年夏に戦争のことについて調べたりYouTubeで動画を見るようにしています。

毎年見る動画は「さとうきび畑」という作品を見ます。

これはテレビの特別番組で放映されたものです。私が初めて見たのは高校生の時です。

沖縄に修学旅行に行く前にみんなで見ました。とても衝撃的でした。

家族を愛し希望を捨てずに必死に生きていこうとする家族と沖縄戦の悲劇を描いた作品です。

忘れてはいけない戦争の話。

沖縄の土地には今なお人骨や不発弾が埋まっていると言われている。

この作品が全てではないと思いますが一度は観て何かを考えさせる作品だと思いますので、まだ観てない人がいたら観てほしいと思います。

何回見ても涙なしでは観れません。 

戦争が終わり75年の月日が経ちました。

まだ75年しかたっていないと私は思います。戦争を経験した人が少なくなってきています。

これはしょうがないことだと思いますが、後世に戦争の悲惨さを伝えていかなければいけないと思います。

私自身もちろん戦争を経験したことはありませんが、自分の知識やネットで調べたことを今回ブログで書かせていただきました。

経験談ではないので少し違うこともあるかもしれませんが、今自分ができることをさせていただきました。

今は世界中の人々がコロナウイルスで大変な思いをしています。

75年前はいつ空から爆弾が落ちてくるかわからない時代です。

目の前で家族や友達が亡くなる時代でした。この日本で明日爆弾で死ぬことはないと思います。

想像ではなく現実に起こったこの戦争を知り、伝えていくことが大事だと思います。

もし、私が結婚して家族ができたら家族みんなで沖縄に行って旧海軍司令部壕や平和記念公園、ひめゆりの塔などに行って戦争の悲惨さを家族に伝えられたらと思っています。

1日でも早く世界から戦争が無くなり、みんなが笑顔で生活できる日がくることを願います。

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